ダダ・プラナクリシュナナンダ
「世界」という言葉は、サンスクリット語で「ジャガト」と呼ばれる。ジャガトは常に動いていて、常に変化を受けているということを意味する。この世の中にあるすべてのものは動いており、動かないものは何もない。これが世界のありのままの状態である。しかしながら、このように尋ねる者がいるかも知れない。「どちらに向かって動いているのだろう?」「この動きの向かう先はどこなのだろうか?」
私が先生に研究課題を与えられているとしよう。この課題の為私は街頭に出て様々な人に会い、質問に答えてくれるようお願いをする。こんな風に、―――「人生の目的とは何でしょう?」ほとんどの人がこの質問に戸惑うのが目に見えるようだ。人生の目的なんて誰も考えもしないことだから。しかし、スポーツクラブだとか会社や団体についての目的だった場合は難なく答えてくれる。組織の設立時に登録された書類にその目的が記されているわけだから。ところが自分自身の人生の目的について考えることなど、たいてい1度もないことのだ。
私は何故生まれたのか? 私は何故この星にやって来たのか? ここに来た目的は何か? 世界は常に動いている。そして私はこの世界のひとかけらにすぎない。もし私が、学位やすばらしい家族、家や自動車、ビデオやテレビを手に入れるために生まれてきたというのであれば、非常に多くの星、太陽、銀河、惑星、何十億という動植物それに人間が棲むこの広大な森羅万象の世界は創造されなかったはずだ。完成のために何十億年をも費やした、それほどとてつもなくマクロな創造界はある大きな目的を持っているに違いない。ヨギは、輪廻転生の存在を信じている。であれば、私が今生で成し遂げた地位や実績というものは来生へと引き継がれはしない。再び最初から始めなければならない。再度勉強し、再度結婚し、再度闘わなければならない。何生に渡って闘い続けるのであろうか? この闘いの目的はきっと別のところにあるのではないのだろうか! これらの取るに足りない目標を達成したところで到底満足できはしない。私はもっともっと限りないものを手に入れたいのだ。そしてそれがどこかにあるに違いないのだ。
「アートマ・モクシャルサム・ジャガト・ヒタヤチャ」
7000年前ものその昔、サダシヴァという偉大な霊性の師がこの惑星上に降り立った、この創造世界を導くために。そして、人生の目標と、その目標にどのようにして到達するかという実践的な方法を示す特別な目的のために。人生の目標とは、「アートマ・モクシャルサム・ジャガト・ヒタヤチャ」であると彼は告げた。つまり、「心理的精神的な束縛の垣根からの魂の解放と世の中への無私の奉仕」という意である。これは個人の目標であり、社会の目標でもあるという。
社会とは何か?社会という言葉は、サンスクリット語で「サーマジャ」という。サーマジャは二つの語根sama とa’ja とから成る。sama は「共に」、または「同じ」、a’ja は「動くこと」を意味する。だから、人間が共に動けばそれが社会である。もしこの社会というものが実際にあるとするならば、二つの要素が不可欠である。一つは共通の目標である。つまりそれは、誰もが認める皆の共通の目的でもある。もう一つは、その目標に向かって動くエネルギーである。さて、私たちにくれた目標が正しいものであると納得したならば、次には、目標を達成するための具体的な方法がなければならない。でなければ、それは夢物語に過ぎないことになる。目標を悟るためにシヴァが教えたまさにその科学的な方法がタントラ・ヨガ、挑戦のヨガである。ヨギたちは、その霊性の修行の内でも最も重要な部分が瞑想であると言う。だから瞑想こそが、解脱と奉仕の心を体得するための実践的な闘いと言えるのである。
そこで、瞑想を行う上で必要な最も基本となるものとは何か? 瞑想は人間の体なしには実践することができないで あろう。それ故、人間の体を維持するために、衣、食、住、医療、これらが、最小限必要である。そしてこれらの基本的な必需品を手に入れるためには職に就かなければならない。そしてそのためには、教育が保障されねばならない。それはつまり、人間の体の生存を保障するために、正しい社会経済哲学が継続的に維持されねばならないことを意味している。
さて、今日私たちのこの星に出現した社会経済哲学にもっと近寄って見てみようではないか。基本的に2つある。まだ書店で手に入るであろう「富国論」の中でアダム・スミスは古い哲学を詳しく説明している。彼は書の中で今日の経済システムは多少の例外はあっても、すべてこの原理に基づくと述べている。私は、ここで経済システムについて説こうというのではない。皆さんにこれらの経済理念の流れの基本的な動機付けを分析して欲しいと思う。アダム・スミスは、私たちの社会が「発展」している理由は貪欲と利己心にあると言う。貪欲と利己心は経済成長の動機付けの要因であり、生活水準を向上させるのだ。また、この特性はどんな方法によっても、特に政府によってはコントロールされるべきでないと言及している。これを彼は「レッセ・フェール」~自由放任主義と呼んでいる。私は、人生の目標とは魂の解放と無私の奉仕であると述べた。だが、今日の経済システムは貪欲と利己心を支持している。あるがままにこの哲学に従ってしまえば、私は霊的な人生の目的に背くことになる。となると、霊性修行を完全に捨てるか、それとも私の目的に合うようにシステムを変えるかのどちらかではないだろうか。
カール・マルクスは、当時のヨーロッパにおける労働者階級の窮乏と困苦への反動を捉えて、国家による所有権行使の新経済システムを提唱した。実際のところ、アダム・スミスの哲学である資本主義と、カール・マルクスの哲学である共産主義の主な違いは所有の概念にある。とは言え、カール・マルクスは貪欲と利己心の問題を解決しなかった。
過去において、共産主義国における指導者たちは大概老人であり、在職のまま死んでいった。共産主義経済においては、実利的な特権が与えられた。党の役人は政府、または党において確かな地位を占めていたので、家、自動車、プール、特別購買権などを手に入れた。しかし、党の役人がひとたび党を離れると少しの特権しか与えられなかった。中には完全にそれを剥奪される者もいた。だから、何も失いたくないと思う。自分が所有している物をずっともち続けたいと思ったのである。共産主義は動機付けにおいて資本主義と同じである。共に貪欲と利己心によってやる気を起こさせる。ただ方法が違うのみである。
私は、貪欲と利己心は霊性の道の追及とは相容れないものであると前に言った。ネイピアのバス停にて、ウエリントン行きのバスに乗ろうとした者が逆方向のオークランド行きのバスに乗ってしまったら、その人は愚か者と呼ばれて当然であろう。しかし、今日世界中で、様々な国、様々な宗教の人々において、まさにこれと同じことが起きているのだ。自分を抑えて犠牲になるべきである、愛すべきである、思いやりのある奉仕をすべきであると教えながら、他方では生活必需品を何千何万と奪い、蓄積しようとする飽くなき競争に余念がない。物質的な財には限りがあるにもかかわらず…。唯一限りがないのは神のみである。だから、物質的な財は合理的に分け合わなければならないのだ。
集団社会の精神
世界のあらゆる聖典には、神は一なる存在であると述べられている。名前には違いがあるが、私たちは皆、神は単一であるという事実を受入れている。
さて、ただ1つの神しか存在しないとするならば、この世のすべてのものがその一なる神から創造され、生まれ出たわけだから、私たちは互いに関係づけられていて、他の存在も皆私と同じように同じ「父」からやって来る。私たちは皆兄弟姉妹なのだ。我が家で食卓に着くとき、自分の食べ物を当然家族全員と分け合う。また、太り気味の弟や瘠せ気味の妹が其々栄養のある食事を摂って同様に健康になるように気を配る。これは犬の社会で起ることとは逆である。犬の群れに残り物を投げ与えると、一番強い犬が食べ物にまたがり、他の犬が食べようとして近づこうものなら、唸り声で威し、気のすむまで食べるのである。今日の「社会」では、限りのある資源の上に如何に様々な「強い犬」が立ちはだかって吼えまわしていることか。何千という悪意のない人びとが鋭い歯と強い顎で引き裂かれてもお構いなしなのだ。
しかし、私たちは犬ではない。すべての生き物は制限なきものを求めている。制限のない目標のみがこの切望を満たすことができる。この地球上に「世界平和」を確立したいと望むのなら、一なる神の原理とその神に到達するための実践法とを普及させなければならない。それは、状況を変えてくれるようなミラクルを待っていたり、独りよがりな自らの人生への霊的な見解に浮かれていたりして、怠けて座り込んでいたのでは確立されはしない。神の慈悲はモンスーンの雨のように豊かに我が身に降り注がれている。私はただそれを利用するだけなのだ。
ラジオ、テレビ、映画、ビデオ、広告板などで毎日のようにあらゆる家庭でマントラが唱えられている―――貪欲と利己心が真の道徳的原則であり、あのドルこそが「神」である―――とのマントラが。霊性とは重圧と緊張からの都合の良い逃避でもなく、株式取引所でのビジネスマンの様に神と人間が互いの利益のために取引するような商売でもない。新しい神(金)と新しい道徳(貪欲と利己心)を宣伝し、それらの物欲を掻き立てるために、人、金、物のすべてが、大変な努力を払って利用されている。
社会の公開討論の場に参加したり、年1回の公の集会で自分の意見を表明したり、あるいは、自宅で、またはグループで霊性の修行に励むことは、それらは本人にとっては役立つことではあろうが、それだけでなく外の世界を目覚めさせることが必要なのだ。平和は、我が心の寺院の内なる神の実現と目的に見合った環境作りの実現を目指して、瞬間瞬間の奮闘によって、生活の質と水準を向上させようとする絶え間ない努力の結果なのだ。人生において、学位、良い家族、家、自動車、パソコンを手に入れることができた、ストレスと病気を克服できたと死の床でつぶやくだけで、私ははたして満足できるだろうか? それは全てを含む普遍的な家族への私の遺産であると言えるだろうか?
霊性は、夢見るような修行ではなく、献身と深い関与が問われる実践的な生き方である。私たちは、瞑想と犠牲、そして無私の奉仕によって、人生の真の目標―――「魂の解放と世の中への無私の奉仕」を社会に広めていく。霊性、そして神の財の、所有ではなく、正しい活用は、地球に平和をもたらすであろう。願わくはその努力奮闘によって我々皆が成功を収めんことを!
この論文はニュージーランドにて活動されているアチャリヤ(師範)、ダダ・プラナクリシュナナンダによって記されたものです。
他の英語による記事はこちらです: www.dadaprana.com